GHQが一年以上をかけて回収した日本刀や軍刀は、全国合わせて110万本以上になったそうです。槍などを含めると140万本になったそうで、それ以外の銃砲類だけでも170万近くの数と言われています。集められた武器は、ガソリンをかけて燃やされたこともありましたし、鉄くずとしてリサイクルをされることもあったそうです。武器の一部は、連合国軍の兵士が、土産として持ち帰ったこともあります。東京の赤羽には、アメリカの第八軍兵器補給の場がありました。そこに数十万本の刀が集められていましたが、東京国立博物館が美術品として価値のありそうな5500点を引き取り、そのまま博物館で所蔵しているそうです。これらは名前を取って、赤羽刀と呼ばれていましたが、最近では持ち主の求めに応じて1000本以上が返却されています。二度の刀狩りを経て、さらにGHQの回収があったにも関わらず、現在でも300万本の日本刀が現存しているのです。

昔は武器として、そして最近は芸術作品に出てくる小道具として、有名になっていった日本刀ですが、日本の長い歴史の中で、非常に多くのの人々によって作られてきました。その中には、名工と呼ばれる刀鍛冶がいます。彼ら、彼女らは非常に優れた刀を作り上げることで、その名を轟かせました。では、平安時代の名工は、どのような人だったのでしょうか。
平安時代においては、日本刀という、反りがある特徴的な刀が初めて生まれました。つまりは、日本刀のプロトタイプとでも呼べるようなものが、たくさん作られたのです。その中でも、安綱という人は、反りが大きく、性能の高い刀を作ったことで有名で、有名な刀としては、童子切安綱や、鬼切安綱があります。
平安時代後期になると、あまり戦いが起きなくなったことから、刀も需要がなくなっていきました。しかし、儀礼用の刀はまだまだよく作られており、三条宗近や、国永という人たちが、有名な刀鍛冶としてよく活躍することとなりました。
名工について知り、ぜひ日本刀を楽しみましょう。

書道の掛け軸を買ったけれども、偽筆なのではないかと不安になることはありませんか。近年メディアでも大きく話題となっており、どんな鑑定をしてくれるのか気になるところです。

そのその偽筆とは、コトバンクによると、他人の筆跡をまねることを表していいます。一生の数えきれないほどの文字を書き、どうしてもその人の癖が出やすいのもです。

そのために筆跡をまねることも可能であり、うまく真似る人もいるのです。そういった場合、偽筆を鑑定する人も現れるのは至極もっともであり、科学的な分析もできることで筆跡を鑑定するのが大きく容易とすることができるようになりました。

契約書や遺言書が残念ながら偽造されている可能性があるならば、科学的に解決を目指すと良いでしょう。

「日本刀」と言いますと武士のシンボル的なイメージをもたれる方も多いのではないでしょうか。日本独自の技術をもって作られた刀剣を日本刀と呼んでおります。独特の技術と言われておりますのは、刃の部分の「反り(そり)」によるところが大きいようです。日本刀と他国伝統の刀剣を見比べてみますと一目瞭然であるかもしれません。反りのない刀剣を直刀などと呼ぶことがありますが、日本刀は湾刀とも呼ばれているようです。現代の日本社会では日本刀を帯刀している人びとを街中にみかけることはありませんが、明治維新まで日本刀は武士たちの大切な武具として日常的に身に付けられてきたようです。日本刀は長さや形状によって区分されその呼び名も異なってきます。「太刀(たち)」「刀(かたな)」「短刀(たんとう)」「脇差(わきざし)」などを耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

水心子正秀は、江戸後期に活躍した刀工で「刀剣懐古論」の提唱者。大慶直胤、源清磨らと合わせて江戸三作の一人である。生まれは、出羽国で本名は川部儀八郎といった。

刀工を志し、明和八年、二十二歳で武蔵国八王子の宮川吉英に入門し「下原派」の技術を習得する。出羽国に帰国したのち、安永三年、山形城主秋元永朝にお抱え刀工として出仕する。

この頃から「水心子」の号を使い始める。天明元年に出府し、日本橋浜町にあった秋元家中屋敷にて作刀を再開。同時に「刀剣実用論」「刀剣武用論」などの理論書を執筆し「相州伝」「備前伝」を研究。このときの研鑽が「刀剣懐古論」の提唱に繋がっていった。

作風は、当時流行していた華美で反りの浅い刀姿に反して、古刀の趣のある反りが深い実用本位の刀剣が特長といえる。「刀剣懐古論」は、多くの刀工の共感を得て作刀技術の主流となっていく。

この流れの中で製作された刀剣を「新々刀」と称する。代表作は、特別保存刀剣「刀 銘 水心子正秀 天明五年二月日彫同作」などがある。

名乗りがまだ晴信だった頃の武田信玄は、駿河平定を祈念して、駿河国一之宮富士山本宮浅間神社に対して社領の寄進、社殿の造営をおこなった。同時に奉納したのが、同神社の宝物として現在に至る「備前国長船景光」である。この時、駿河平定は叶わなかったが、後には駿河平定を成し遂げている。数多くの名工を世に送り出した備前長船派、中でも名工の誉れが高かったのが景光である。備前長船派は、祖を光忠、その子長光、そして、その子景光と連なる。地鉄の肌は、非常に繊細な小板目肌に仕上がり、整った乱れ映りの様が美しい。刃文は豪華な仕上がりの匂出来の直刃調。日本刀独自の造込である鎬造に樋が通してある。反りの中心を柄の近くに置く腰反りの美しさが、見るものを魅了する。帽子は横手上の刃が狭い三作帽子。まさに美と力を共存させた名刀といえるかもしれない。江戸時代に編まれた古美術図録集「集古十種」にこの景光らしき太刀が記載されている。図録集には、金梨子地の鞘と鮫革包の柄が描かれていた。浅間神社の記録にも残っている。だが、現在は散逸してしまって残っていない。