室町期になると「関七流」といわれる多流派が生まれる。各々が独自の特徴を持ち、名刀を生み出した。関は、刀銘に「兼」の文字を使う刀工が多数おり、「和泉守兼定」「関の孫六兼元」等が白眉とされている。
「美濃伝」が戦国期に最盛期を迎えたのは。地理的要因が大きいといえるだろう。美濃国は、古来より畿内、東国、北陸への向かう者にとって交通の要衝であり、ひいては軍事上の要衝であった。
天武天皇元年には、古代日本における天下分け目の戦いであった「壬申の乱」、また、慶長5年には、再度、天下分け目の戦いとなった「関ヶ原の戦」が勃発している。
美濃国は、戦国の群雄にとって欠くべからざる地政学上の拠点であった。武器需要も右肩上がりに増大していくのも必然といえるだろう。