来国次は、鎌倉時代後期から南北朝時代の刀工である。山城国(現在の京都府南部)で隆盛した「来派」の四代目当主である。「来国俊」の弟子と云われている。後に相模国(現在の神奈川県中西部)鎌倉に移住した。相州伝の名工「岡崎五郎入道正宗」の高弟「正宗十哲」のひとりに数えられ、「鎌倉来」と称された。これは、国次の作風が、従来の来一門の作風と違い、身幅が広く、腰反りは深く付いて大鋒となる南北朝時代の力強い刀姿、刃文には浅い湾れに金筋・砂流しを交えて沸が付くなど、相州伝の強い影響がうかがえる。現存する来国次の在銘は、短刀や脇差がほとんどで、太刀の在銘は、重要文化財に指定された二振ほか数振りが知られるのみである。

代表作

短刀 国宝 銘 来国次 (個人蔵)

太刀 重要文化財 銘 来国次 (前田家伝来 山形蟹仙洞所蔵)

太刀 重要文化財 銘 来国次 (徳川将軍家伝来 個人蔵)

折り紙は、元々は日本刀を誰かに授与した時の目録として使われていました。さらにそこに、日本刀の銘や特徴を記し、価格が一緒に明記されることによって、鑑定書としての役割に変わっていきます。

この価格付けが発生することで、日本刀に価値のランクが定まってきます。武器としても使える日本刀ですが、この価値が高ければ実戦で使って価値を下げるわけにはいかなくなってくるのです。日本の古美術品には、箱書きや鑑定書がついていますが、この折り紙の習慣からです。

他にも、質が保障されている物(人)に対して、「折り紙付き」という言葉を使うことがあります。この折り紙というのは、刀剣の鑑定書が由来になっているのです。「極めつき」という言葉も、刀剣鑑定書を極め書きと言っていたところからなので、現代にも大きな影響を与えていると言えるでしょう。

GHQが一年以上をかけて回収した日本刀や軍刀は、全国合わせて110万本以上になったそうです。槍などを含めると140万本になったそうで、それ以外の銃砲類だけでも170万近くの数と言われています。集められた武器は、ガソリンをかけて燃やされたこともありましたし、鉄くずとしてリサイクルをされることもあったそうです。武器の一部は、連合国軍の兵士が、土産として持ち帰ったこともあります。東京の赤羽には、アメリカの第八軍兵器補給の場がありました。そこに数十万本の刀が集められていましたが、東京国立博物館が美術品として価値のありそうな5500点を引き取り、そのまま博物館で所蔵しているそうです。これらは名前を取って、赤羽刀と呼ばれていましたが、最近では持ち主の求めに応じて1000本以上が返却されています。二度の刀狩りを経て、さらにGHQの回収があったにも関わらず、現在でも300万本の日本刀が現存しているのです。

大河ドラマなどで、戦国武将が特徴的な衣服を着ているところを見たことがある方は多いでしょう。あの、豪華絢爛な衣装は、陣羽織と呼ばれ、それぞれの戦国武将のセンスが際立つような衣装でした。では、どのような特徴があるのでしょうか。
陣羽織は、丈が短い着物で、戦国武将らが甲冑の上から着るものです。冬や、雨が降っているとき、それから風が強いときは、いくら戦場と言っても、寒いものは寒いです。ですから、そのようなときのための防寒着として、使われ始めたと言われています。そこから段々と改良が重ねられ、軽量化に成功。一般的に使われるようになると、戦国武将がそれぞれ格好つけるために、様々な装飾を施すようになりました。家紋や、華やかな絵を刺繍したり、派手な色や柄の生地を使ったりと、色々な手段で、その豪華絢爛さを増していったと言われています。
ドラマを見るときは、陣羽織について、そのような視点で見てみると、より面白いです。

昔は武器として、そして最近は芸術作品に出てくる小道具として、有名になっていった日本刀ですが、日本の長い歴史の中で、非常に多くのの人々によって作られてきました。その中には、名工と呼ばれる刀鍛冶がいます。彼ら、彼女らは非常に優れた刀を作り上げることで、その名を轟かせました。では、平安時代の名工は、どのような人だったのでしょうか。
平安時代においては、日本刀という、反りがある特徴的な刀が初めて生まれました。つまりは、日本刀のプロトタイプとでも呼べるようなものが、たくさん作られたのです。その中でも、安綱という人は、反りが大きく、性能の高い刀を作ったことで有名で、有名な刀としては、童子切安綱や、鬼切安綱があります。
平安時代後期になると、あまり戦いが起きなくなったことから、刀も需要がなくなっていきました。しかし、儀礼用の刀はまだまだよく作られており、三条宗近や、国永という人たちが、有名な刀鍛冶としてよく活躍することとなりました。
名工について知り、ぜひ日本刀を楽しみましょう。