「日本刀」と言いますと武士のシンボル的なイメージをもたれる方も多いのではないでしょうか。日本独自の技術をもって作られた刀剣を日本刀と呼んでおります。独特の技術と言われておりますのは、刃の部分の「反り(そり)」によるところが大きいようです。日本刀と他国伝統の刀剣を見比べてみますと一目瞭然であるかもしれません。反りのない刀剣を直刀などと呼ぶことがありますが、日本刀は湾刀とも呼ばれているようです。現代の日本社会では日本刀を帯刀している人びとを街中にみかけることはありませんが、明治維新まで日本刀は武士たちの大切な武具として日常的に身に付けられてきたようです。日本刀は長さや形状によって区分されその呼び名も異なってきます。「太刀(たち)」「刀(かたな)」「短刀(たんとう)」「脇差(わきざし)」などを耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

水心子正秀は、江戸後期に活躍した刀工で「刀剣懐古論」の提唱者。大慶直胤、源清磨らと合わせて江戸三作の一人である。生まれは、出羽国で本名は川部儀八郎といった。

刀工を志し、明和八年、二十二歳で武蔵国八王子の宮川吉英に入門し「下原派」の技術を習得する。出羽国に帰国したのち、安永三年、山形城主秋元永朝にお抱え刀工として出仕する。

この頃から「水心子」の号を使い始める。天明元年に出府し、日本橋浜町にあった秋元家中屋敷にて作刀を再開。同時に「刀剣実用論」「刀剣武用論」などの理論書を執筆し「相州伝」「備前伝」を研究。このときの研鑽が「刀剣懐古論」の提唱に繋がっていった。

作風は、当時流行していた華美で反りの浅い刀姿に反して、古刀の趣のある反りが深い実用本位の刀剣が特長といえる。「刀剣懐古論」は、多くの刀工の共感を得て作刀技術の主流となっていく。

この流れの中で製作された刀剣を「新々刀」と称する。代表作は、特別保存刀剣「刀 銘 水心子正秀 天明五年二月日彫同作」などがある。

名乗りがまだ晴信だった頃の武田信玄は、駿河平定を祈念して、駿河国一之宮富士山本宮浅間神社に対して社領の寄進、社殿の造営をおこなった。同時に奉納したのが、同神社の宝物として現在に至る「備前国長船景光」である。この時、駿河平定は叶わなかったが、後には駿河平定を成し遂げている。数多くの名工を世に送り出した備前長船派、中でも名工の誉れが高かったのが景光である。備前長船派は、祖を光忠、その子長光、そして、その子景光と連なる。地鉄の肌は、非常に繊細な小板目肌に仕上がり、整った乱れ映りの様が美しい。刃文は豪華な仕上がりの匂出来の直刃調。日本刀独自の造込である鎬造に樋が通してある。反りの中心を柄の近くに置く腰反りの美しさが、見るものを魅了する。帽子は横手上の刃が狭い三作帽子。まさに美と力を共存させた名刀といえるかもしれない。江戸時代に編まれた古美術図録集「集古十種」にこの景光らしき太刀が記載されている。図録集には、金梨子地の鞘と鮫革包の柄が描かれていた。浅間神社の記録にも残っている。だが、現在は散逸してしまって残っていない。

歴史の中でイメージされる「日本刀」は、合戦の中で人々の武器として活躍した壮大なイメージがありますが、現実的には日本刀などの刀剣は合戦にはあまり用いられない武器であったようです。鉄砲が武器として出現するまでに、合戦にて多く用いられた武器は、弓矢、薙刀、槍などになるようで、さらには投石や小石などが日本刀よりも数多く用いられていたようなのです。

時代劇のなかで姿をあらわす「日本刀」といえば、合戦の決着がついた際に相手の首を取ったり、武士たちが切腹をする際などに用いられていたような印象がありますが、実際には現代における時代劇のような使われ方はしなかったのではなかろうかと考察している専門家たちもいるようです。

たしかに「日本刀」のような、腕の長さほどの長さのあるものを実用的に合戦のなかで兵士たちが振り回すことは非常に無理があるフォルムをしているかもしれませんね。現代人が抱く「日本刀」へのイメージは、映画、アニメ、漫画、時代劇などに登場する役者たちが演じる武士たちのイメージが強く定着してしまっているのかもしれません。

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